彼女を始めて見たのは、故郷の島へ向かうフェリーの甲板だった。
春の終わりで、夏の直前。梅雨を間近に控えた、晴れた海の上の朝。
一夜をかけて都心の桟橋から島へと渡る船の中で、僕はその日、浅い眠りから覚めた。
客室とは名ばかりの、壁を取り払った雑魚寝の大部屋。もう一度寝付けるとも思えず、肌にまとわりつく湿気から解放されようと甲板へ出た。
そこで、彼女を見つけた。
朝陽に薄れていく靄の彼方の、目的の島の薄黒い影。それを望む船首とデッキとを隔てる柵の、向こう側。
本来なら乗客は立ち入れないその場所に、彼女はこちらに背を向けて立っていた。もう3歩も踏み出せば海の中、という船のへりに。
淡い赤と白のネルシャツに、デニム地の短いスカート。とても乗務員には見えない彼女が、多分乗務員だけが立ち入れる場所に、当たり前のように佇んでいる。なんだかそれが少し滑稽に思えて、好奇心をくすぐられて、だから、思わず声をかけた。
「そこ、危ないですよ。」
僕の声に、彼女はぴくりと肩を震わす。でも振り向きはしなかった。
「だって気持ちいいんだもん、こっちのほうが。」
思ったよりも幼い声が、背中越しに返ってくる。
体型、もあるが、彼女の背負っている雰囲気そのものがどことなく引き締まっていたから、その声で想像できる年齢よりも、少し上だろうと思っていた。
声を聞いて、納得する。
彼女はきっと、若い。多分僕よりも、5つか、6つか、もう少し。二十歳を越えたばかりか、その少し、手前くらい。
若い頃にありがちな衝動。常識とか良識の、少し外側を覗いてみたくなるような、その時期特有の好奇心。彼女を柵の外へと駆り立てたのも、きっとそんな気まぐれなんだろうと思うと、放っておいた方がいい気がした。
「じゃあ、乗務員に見つからない程度に、ね。」
言い残して背を向けようとした時、彼女が振り向いた。回りかけた僕の肩が止まった。
消えていく朝靄と一緒に溶けてしまいそうなほどの、彼女の肌の白。それが眩しくて、僕は目を細めた。頬の辺りの丸みにまだ少し幼さが残っていたが、綺麗だった。素直に、そう思った。小さくとくんと、胸が脈を打った。
「それはヤダ。面倒臭い。」
彼女は僅かに眉をひそめ、おもむろに足を上げた。スカートから伸びた腿があらわになって、僕は思わず目を逸らす。
そんな僕の戸惑いを気にかける様子も無く柵を飛び越えると、小さく吹き出すように彼女は笑った。
「見えた?」
少し意地の悪い声を放って、伏せた僕の顔を覗き込む。その時一瞬、彼女の表情が強張った気がしたが、すぐにもとの、挑発するような笑顔に戻った。
「いや、見えてない。本当に。」
慌てて首を横に振る僕の頬を、軽く握った拳で彼女が小突く。
「スケベ。」
悪戯っぽく言って、彼女はすっと踵を返し、客室へ向けて歩き出す。かと思うと、数歩だけ歩いたところで、唐突に止まった。
「あなた、臆病なタイプの人でしょ?」
背を向けたまま、彼女が言った。
「・・・臆病?」
彼女の意図するところがわからなくて、僕は思わず聞き返す。
「なんとなく、そんな気がする。」
言って彼女は、再び歩き出した。
彼女に小突かれた頬に手をあて、僕はその背中が客室に消えていくまで、呆然と眺めていた。彼女の、裡から沸き立つような奔放さに圧倒されて、眺めていることしかできなかった。
臆病。
何を根拠に彼女がそう言ったのかは判らない。が、鋭いな、と思った。
確かに僕は、臆病だ。
臆病だから、高校を卒業してこの島を出てから10年、僕は一度も、ここへ足を向けられなかった。今だって、そんな自分の弱さを取り繕うことのできる大義名分がなければ、この船に乗ることなんてきっと、できなかった。
父の死。
それが僕の、大義名分だった。