僕は多分、単純に父の浮気を許せなかったわけじゃない。
それだけのことで、こうも胸の中を乱されたりはしない自信はあった、と思う。
家を半ば捨てたような父よりもむしろ、母の中途半端な弱さのほうが、僕にとっては苦痛だった。
そう、中途半端なのだ。逃げ出すわけでも、立ち向かうわけでもなく、かといって潰されてしまうほど弱くも無い。その半端さのほうが、とてつもなく痛かった。父を憎んだのは、その痛みをごまかす為の虚勢のようなものだった。
それを確信したのは、高校3年の7月半ば、夏休み直前に、僕が季節外れの大風邪をひいて寝込んでしまった時だ。
啓太と拓郎に、僕と父や母との間に横たわった歪みを知られてしまった時でも、あった。
その日、タイミングの悪いことに、父が数日前から家に戻っていた。
僕の寝込んでいる間、母は看病にかこつけては、父を避けるように僕の部屋に頻繁に出入りしていた。本当は父にすがりたいくせに、父と真っ直ぐに向き合うことを恐れて、そんなふうに僕に逃げ場所を求める母に、苛立ちと鬱陶しさを感じながら、僕は自室のベッドに篭っていた。
夕方近くになって、朦朧とする意識の向こう側から、二つの異なる排気音が聞こえてきた。部屋のすぐ下の玄関前でその音が止んだ時、ようやくそれが、啓太と拓郎のバイクであることに気付いた。
4ヶ月ほど前の春休みに、二人は家業を継ぐ事を条件にして、親から貰った資金で念願のバイクを手に入れていた。
『どうせ家の仕事以外、俺らに将来はないんだし、このまま黙ってても継ぐことになるのによ、こんな口約束だけでバイク買って貰えるなんて、親も馬鹿だよな。』
啓太は自分のマシンを手に入れた嬉しさに、無防備に顔をほころばせながら、そう言っていた。
でも、僕には判った。啓太の親も拓郎の親も、きっとそんなことは承知の上で、あえてそうしたのだ。それが、普通の親が子に対して抱く愛情で、ただ、ストレートに表現してしまうには、威厳だとか、体裁だとか、照れだとかいうものが邪魔をしてしまうから、それっぽい建前で本心をぼやかしているのだ、と。当たり前の愛情を当たり前のように与えられている二人に、僕は身勝手だとは判りつつも、嫉妬していた。
部屋のドアがノックされ、僕が返事を返す前に、二人が部屋に入ってきた。
僕はふらつく頭を僅かに上げて、よう、と擦れた声を投げた。
「生きてるみたいだな。」拓郎が言い、「生きてる、生きてる」と啓太が続ける。軽い、からかうような口調だったが、どこか安堵を滲ませた声色だった。それが判って、少し嬉しくて、少し、照れた。
「初めてなんだよな、淳の家に来るのってさ、意外なことに。」
啓太は、僕の部屋のあちこちに目線を走らせながら言い、
「何でか知らんけど、お前、避けてたもんな、俺らがこの辺に近寄るの。」
拓郎も啓太につられて、部屋の中を物珍しそうに見回した。
二人の不思議がる事は、僕にとっては当然の事だった。この家から遠ざかる為に二人とつるんでいたのだ。二人といる時にここに戻るなんて、その時の僕にとっては本末転倒でしかない。でももちろん、そんなことを口にはできない。だから、「避けてねえよ、バカ」と、曖昧な返事でごまかした。
それからしばらく、二人はいつものように、どうでもいいことをだらだらと話し続け、僕はぼやけた意識のままそれとなく、相槌を打った。
一通り話し終えて、話題が尽きた頃だった。
「お前もさ、親に頼んで買ってもらえよ、バイク。」
啓太が唐突にそう言い出した。
二人がバイクを手にした頃から、いつかは聞かれるだろうと思っていた事だった。予測はしていたから、どうやって話をそらすか、頭の中で何度かシミュレーションをしてはいた。でも、実際に目の前でその台詞を聞かされると、上手い具合に頭が回らなかった。熱のせいだったのかもしれない。口ごもっていると、拓郎も、啓太の言葉に続けた。
「そうだよ。お前の親父って画家なんだろ?儲かってんじゃねえのか?この家もでかいしよ。結構、俺らの親なんかよりもあっさり買ってくれたりして。」
二人とも無責任に軽い口調だった。悪気がないのは判っていても、触れて欲しくないことをあっさりと口にされ、僅かに頬が震える。
「いいよ、別に。」
絞り出すような声で、僕はそう答えた。そうとしか、答えられなかった。
何も知らないくせに軽々しく言うなと、お前らは親を忘れさせてくれる為の存在じゃないのかと、理不尽な憤りがふつふつと胸の奥で沸いた。理不尽だと十分に判っていたから、それを 必死に抑えた。
でも、まるで僕が必死に抑えているその高揚を更に煽るように、啓太がしつこく食い下がる。
「お前さ、親の脛をかじれんのも今だけだよ。言うだけ言ってみろって。」
拓郎も、「良いこと言った、今。」と煽る。「だから、いいって。」と返しつつ、僕は膨れる苛立ちを、抑える。そこで、ノックと同時に部屋のドアが開いた。
母だった。
何で今、入ってくる?
母を睨んだ。母は気付かなかった。もしかしたら気付いていて、気付かない振りをしているだけだったのかもしれない。とにかく、母の視線は僕の視線と交差しなかった。
トレンチに乗せたコップを二人に手渡しつつ、「お見舞いありがとね。」などと、愛想笑いを浮かべる母が、妙に醜く見えた。それまでは啓太と拓郎に向いていた憤りが、母へと向き直り、その激しさを更に増していった。
出て行け。
心の中で叫ぶ。でも、母には届かない。
「ごめんね、今の話、聞こえちゃったんだけど、もし良かったら私からお父さんに頼んでみようか?」
目を合わせずに、母が僕に言う。何を言い出すのかと、その横顔を睨む。
出て行け。
もう一度、無言で叫ぶ。やはり届かない。母は僕に顔を向けたが、視線は、僕に向かない。 僕の顔の僅かに脇をすり抜けて、その後ろの壁を、母の視線は捕らえている。微妙にズレたその視線が、胸をむかつかせる。母を助長するように、「おばさん話わかるね」とはやし立てる啓太の声が、曖昧にぼやける。
やめろ。やめてくれ。
「お父さん、ちょうど帰ってきてるし、今、ちょっと聞いてみるね。」
母は僕の想いを反故にするように、続ける。そこで、弾けた。
「ふざけるなよ!」
僕は、叫んでいた。今度は、声に出して。啓太と拓郎の見開かれた眼差しを頬に感じた。目の前の母も固まっていた。でも、それでも、僕は止まらなかった。
「そうやって理由をつけなきゃ親父と話もできないのかよ!違うだろ?本当はそんなことを親父に聞きたい訳じゃないんだろ?東京で親父が囲ってる女のことだろ?ほっぽらかしてるこの家のことだろ?ちゃんとあんたを見て欲しいってことだろ?なぁ、違うのかよ!それができないからって、俺をいいように利用するのはやめろよ!」
一息に言った。
僕の声の後に、キン、という金属音が尾を引き、それで、空気が固まった。沈黙が、重かった。息苦しかった。窓の外から入り込んでくる蝉の声だけが、妙に空々しく、部屋の中をぐるぐると回っていた。