8. Father’s Cape



 シートから伝わってくる振動が心地よかった。久しぶりのバイクの感触に、暫くの間僕は、無心で酔った。
 島を一周する街道を北へと走り、北端から今度は、島の東側へ回り込んで、南下する。キャンプ場が乱立する地区を越えると、熱帯植物が群生する森と、乾いた砂の更地とが交互に過ぎ去っていく。砂の更地は、僕が生まれる以前に起こった噴火の爪跡だと聞いた事があるが、生まれたときからずっと、島の中央に静かに佇むあの山が噴火したなどと、体験したことの無い僕にとってはリアリティが無かった。
 フェリーの着いた桟橋とは、その山を挟んでちょうど東の反対側にある小さな岬で、僕は拓郎から借りたバイクを停めた。
 ドラッグスター400。
 免許を取って、あの時のショックから立ち直った拓郎が、ようやく本当の意味でバイクに興味を持ちはじめた時、しきりに欲しい欲しいと漏らしていた、アメリカンタイプのマシン。ロングフォークの不安定なデザインは、飛ばしたがりの僕向きではなかったけれど、それでも、バイクに乗る機会すら無くした今となっては、シートを跨げるだけもそれなりに幸せだった。
 バイクを降りて、街道脇からなだらかな勾配の続く岬の先端まで、一応は踏み均ならされた、獣道のような緩い坂を登って行く。
 昔から、観光客はおろか、地元の人間も滅多に、訪れることのない場所だった。観光地でよく耳にするような不吉な噂話があった訳でも、誰かの私有地で、立ち入りが禁じられている訳でもない。単純に、ひと気のない島の東の端の、このちっぽけな岬に誰も何も、用事がなかっただけなんだろう。
 別に、図ってここへ来た訳ではない。が、坂を登りきり、岬の先端に到着した時に、僕は、そういえば父はこの場所が好きだったな、と不意に思い出した。
 父も、ここがひと気の無い場所だということを良く知っていた。知っていたからこそ、父はこの場所が好きだった。女性との関係には無秩序で無差別なくせに、それ以外の人間関係を極端に嫌っていた父は、独りになれるからという身勝手な理由で、この場所によく足を運んでいた。
 一度だけ、父と二人で、この岬を訪れたことがある。やはり今と同じような、梅雨の前の時期。黒いキャミソールを着た女が家を訪れたあの夏休みを、迎える直前だったはずだ。
 『どこまでを人殺しと言うのかな。』
 岬の先端で、僕と並んでレジャー用の折り畳みチェアに腰掛けたその時の父は、スケッチブックの表面に芯の柔らかい鉛筆を走らせながら、呟くように言った。
 『え?』
 その真意を汲み取れず、間抜けな声で聞き返す僕に、父は、忙しなく動かしていた手を止めて、弱々しく笑って見せた。そして再びスケッチブックに目を戻すと、黙々と、静かに波を弾く眼下の海岸線を、白い紙の上に描き始めた。
 今でも父が漏らしたその言葉の意味は判らない。でも、父の見せたその時の、何かに打ちひしがれたような表情は、僕の瞳の裏側に、何故か妙に鮮明に焼きついていた。
 ふと人の気配を感じて、僕は我に返る。
 いつの間にか、誰かが背後に立っている、とその気配で察した。
 いったい誰がこんな辺鄙へんぴな場所を訪れたのだろう、と思い、自分もそんな場所にいるんじゃないかと、苦い笑みを漏らしながら振り向いた。
 「独りでにやついてると、キモいよ。」
 若い女の、高くて、少しからかうような乾いた声と同時に、まず淡い赤が視界に飛び込んできた。その後に、短いデニム地のスカートと、そこから伸びる白い脚。ああ、あの娘かと、顔を見る前に判った。
 「なんかさ、視線がエロいって。やっぱりスケベオヤジだね。」
 馬鹿にしているのか、呆れているのか、それともその両方なのか、掴みづらい表情を浮かべながら、彼女は笑った。
 「オヤジと呼ばれるほど、歳は離れてないと思うんだけど。」
言いながら、変なところを気にかける自分が滑稽に思えた。オヤジと呼ばれることに、むきになって抵抗しているようで、ちょっと情けなくもなった。
 「何でこんなところにいるの?こんな辺鄙なとこに。」
 彼女が問いかけてくる。こんな辺鄙、とさっきまで僕が思っていた通りのことを口にしたので、どきりとする。
 「君だって、なんでいるんだ?こんなところに。」
 胸の中に沸いた小さな動揺を誤魔化すように、僕が返した。少し卑怯な返答だな、と思った。思ったそばから、彼女は容赦なく、そこを突っ込んでくる。
 「私が先に聞いたんだから、先に答えてよ。」
 虐めを楽しむ子供と同じ、軽薄で、乾いていて、無責任な好奇心が篭った口調。僕がたじろいで黙っていると、別に良いけど、と呟いて、僕の横をすり抜け、岬の先端に彼女は立った。
 「うん、確かに綺麗だ。」
 岬の淵に建て付けられた木製の手すりに手を置き、上半身を少し乗り出すようにして、彼女はそこから見える眼下の海岸線を眺めながら、言った。
 僅かに吹きつけてくる海風に、彼女の長い髪がさらさらと、揺れる。それまでは、少し艶のある彼女の存在感が、島の純朴な景色からは浮いて見えていた。でもこの時の彼女は不思議と、目の前の風景に溶け馴染んでいるように思えた。
 「親父の好きな場所だったんだ。」
 彼女の華奢な背中に向けて、僕は答えた。
 父のことを口にするのは少し抵抗があったけれど、変に取り繕うのも面倒だった。
 「だった?過去形?」
 背を向けたまま、彼女が言う。
 「死んだんだ。」
 わざと軽い調子で僕が言うと、彼女は、「それは・・・」と少し困ったように間をおいてから、「どうも。」と、多分、彼女にできる最大限の憂いを込めて、付け足した。
 「君はこの場所を、誰かに聞いたの?」
 今度は僕が尋ねる。
 「知り合いに。」
 彼女の、そっけない返事。やはり僕に背を向けたままで、言う。
 「その知り合いは、この島の人?」
 「ちがうよ。」
 「よくこんな場所を知ってたね、その人。地元の人間だって、そうそう来ることないのに。」
 「マニアックなの、そいつ。」
 彼女は背を向けたままだったけれど、僅かな肩の揺れで、笑ったな、と判った。その知り合いを冷やかすようでいて、どこか、情というか、暖かさを含んだ声色だった。
 それとなく、その相手は男性なんだろう、と察した。恋人かな、とちらりと勘ぐった。何を考えているんだと、慌てて、その空想をもみ消した。
 それから僕は、後に続く言葉を見つけられずに、黙り込んだ。無理に探すのも億劫だったから、暫く黙ったまま、彼女の背中とその向こうの海を、見ていた。
 彼女も何も言わず、動かなかった。彼女の長い髪だけが、柳の枝のようにしなやかに揺れていた。
 静かだった。殆ど凪いだ海が海岸に打ち付ける小さな波の音も、耳鳴りのように遠くに聞こえて、この空間だけ時間がゆっくりと進んでいるのではないかと、錯覚した。
 「ねえ。」
 不意に彼女は言って、振り向いた。あまりに唐突だったから、僕は思わずぴくりと、体を震わせた。
 振り向いた彼女を、正面から見据える。やっぱり、綺麗な顔立ちだった。シャープなようでいて、ここぞという所の曲線が、絶妙なバランスだった。そして、そこかしこに残るあどけなさの奥に、しっかりと芯の通った強さのようなものも感じた。不思議な魅力だな、と胸のうちで関心するように頷いた。
 「どこまでを人殺しと言うのかな。」
 それは、唐突だった。
 何の前触れも脈絡もなく、その言葉が、彼女の口から漏れた。僕は一瞬、幻聴かと思った。ついさっき脳裏に蘇った父の声と恐ろしいほどにシンクロして、不吉に、それでいて妙に澄んだ波長で、僕の頭の中に響いた。
 金縛りと言うのは、こういう感じなんだろうか。体が動かなかった。膝だけが、僕の意思とは無関係に、小刻みに震えていた。冷たい汗が、頭皮をじわりと湿らした。
 「なんて、ね。」
 と呟いた彼女の声が、僕をこの訳のわからない呪縛から開放してくれる。体からすっと、力みが抜けた。呼吸をするのも忘れていた。少しあがった息を、彼女に悟られないように、静かに、整えた。
 彼女はいたずらっぽく微笑むと、何事もなかったかのように軽やかな足取りで、再び僕の横をすり抜け、街道へと続く坂道を降りていった。
 今のは、なんだったんだろう。
 どこかから誰かの意思が、この丘の上の空間に迷い込んできて、彼女の体を借り、さりげなく顔を覗かせたような、感触。
 誰の?
 ・・・父の?
 思って、大きく身震いした。


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