37. Hands To Heaven



 陽の光を反射して、青く輝く公園の芝生の上を、あの男の子が駆けていた。
 その先に、見覚えのある人影が見える。
 小柄な女性。
 屈み込んで男の子に目線を合わせ、陽光の中に溶けてしまうそうな笑みを浮かべて、男の子を迎え入れようとしている。
 「ママ!」
 男の子が女性に向けてそう呼びかけた時、僕は、全てを悟った。
 嘘。
 その人なりの、優しさだったのだろう。
 頑なに故郷に背を向けてふらついていた僕を、身軽にさせたかったんだろう。
 そんなことにはこれっぽっちも気付かずに、僕はその人を打ちのめしたのだ。かつて父が、僕や母や兄にそうしたように。
 隠れていた事実が、胸に刺さる。啓太や拓郎や美咲、そしてその人が覆い隠していた事実。全ては、僕のために。僕の傲慢さを許してくれた彼らの想い。胸の奥から何かがこみ上げてくる。僕は奥歯を力ませ、必死にそれをこらえた。こらえると同時に、彼らの想いに報いるべきこれからの未来を、覚悟した。
 臆病。
 妹の声がする。
 今は否定することのできない妹の叱咤に、いずれ違うと胸を張って言い返せる時がくるのだろうか。
 いや、言い返さなくてはならない。いつか、きっと。
 僕に気付いたその人が、驚いた表情を浮かべている。そして、何かに観念したように、恐る恐る、男の子の手を引いて、こちらへ歩み寄ってくる。
 「サキちゃんに聞いたの?」
 男の子を自分の傍にぐっと引き寄せて、優希が訊ねた。
 「本当は、黙ってるつもりだったの。あの3人にも、黙っててもらうはずだったの。」
 「もう、いいよ。」
 いたずらの見つかった子供のように、すがるような目を向ける優希の言葉を、僕は制した。それでも、優希は続ける。 
 「あの、あの日にさ、私ちょっと取り乱しちゃって、淳は淳で、あの、彼女のことで大変だったみたいだけど、その、サキちゃんとか啓太君とか拓郎君にも心配かけちゃって、サキちゃんは淳に全部話すって聞かなくて、今は淳も大変そうだからやめてって、頼んでたんだけど・・・」
 抱きしめた。うろたえて、支離滅裂に言葉を並べる優希を、ただ、抱きしめた。
 途端に、いろんなものが僕の中になだれ込んできた。腕に感じる確かな優希のぬくもりから、いろいろなものが、次々と。
 僕の子を生み、僕を束縛させないが為に、独りでこの子をここまで育てた優希の、抱えてきたであろう孤独が、僕の胸に染みてくる。
 自分の愚かさが憎かった。悔しくて、胸が震えて、いつのまにか、頬がぬれていた。
 「ごめん。」
 震えそうになる声を必死に抑えて、絞り出すように、言った。
 「ごめん。」
 もう一度、繰り返す。今度は、語尾が震えで歪んだ。途端に、優希が嗚咽を漏らした。
 「我慢できると思ったんだけどな。でも、駄目だった。淳の顔見たら、もう、なんだか・・・」
 「ごめん、でも、もうだいじょうぶ。」
 優希を抱きしめる手に、力を込める。僕の背に回された優希の腕も、更に僕を強く引き寄せるのがわかった。
 ふと、腿の辺りを叩かれる。涙でぼやけた視界の向こう側で、男の子が僕の脚をしきりに叩いている。きっと、母親を泣かせている悪い男ように見えるのだろう。その通りだ、今までは。でも、これからは違う。孤独で刻まれた優希やこの子の傷を癒せるのに、どのくらい時間が掛かるかはわからない。でも、いつか、きっと。
 少し屈んで、男の子ごと、二人を抱いた。僕の腕の中で必死にもがく男の子を、宥めるように、それでも、力強く。
 潮のにおいがする。
 穏やかな海風に乗って、故郷の匂いが、僕らを包む。
 『そういうカタチも、ありなのかもね。』
 遠くで砕ける波の音に、妹の声が重なる。
 君の選んだカタチも、ありなんだろうな、と思う。
 悲しくて、痛くて、でも、純粋だった。
 ふと思う。
 美咲の店を通り過ぎた時に蘇った、妹の言葉。
 臆病。
 彼女が、僕を引き寄せてくれたのだ。優希と、僕の子の元へ。
 きっと、彼女が。
 片手を、空へかざした。
 妹も一緒に、抱き寄せられるような気がした。



<了>


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