日に3便、本土に向けて出航するフェリーの、2便目。
僕と兄が港に着いたとき、その2便目の乗船が始まる直前だった。
今にも船に乗り込もうと列を成す人の群れの中に、視線を投げる。が、彼女の姿は見当たらなかった。
「いないな。」
落胆とも安堵とも取れる曖昧な溜息と共に、兄が言った。僕は僕でぞんざいに頷き返すと、念を押すようにもう一度、人ごみの中に視線を走らせた。でも、やはり彼女を見つけることはできなかった。
「1便目が出港する時はお前と会ってたはずだから、まだ、この島にいる。」
兄の口調はまるで、自身に言い聞かせるような響きだった。僕も自分で自分を納得させるように、小さく頷いた。
「まだ、この島にいる。」
繰り返し兄が言って、あの場所が思い当たった。
あの岬。
ここにいないのであればもう、あそこしか、考えられなかった。
「兄さん、行こう。」
兄の返事を待たずに踵を返し、ロータリーへと引き返す。
「心当たりがあるのか?」
僕を追ってきた兄が、僕に並んでそう尋ねた。
「俺が運転してくよ。」
言いながら、兄に手を差し出す。兄はたじろぎながらも、ポケットに捻じ込んでいた車のキーを抜き出して、僕に渡した。
「どこなんだ?」
答えるのが億劫だった。億劫と言うより、焦って、言葉を返す余裕が無かった。僕は黙ったまま、運転席へ滑り込んだ。慌てて兄も、助手席に乗り込む。
車を発進させた。さっきの兄と同じように、乱暴な運転になってしまっていた。
獣道のような細い坂を駆け上り、岬の先端へたどり着くと、その穏やかな風景とは相容れない、場違いな紫が目の中に飛び込んだ。
岬の先端で揺れる、紫。
岬の先端の、柵の向こう側に立つ彼女の纏った、紫のワンピース。その裾が、海から吹きつける緩い風に、ひらひらと揺れていた。
きっと彼女はここにいる。その予感は当たった。でも、状況は最悪だった。もう半歩踏み出せば、柵を掴む手を離してしまえば、岬の下の断崖に落ちてしまうような場所に、彼女は立っているのだ。穏やかな笑みを浮かべながら。
「よかった。」
笑みを携えたまま、彼女が言った。「私、大事なことを忘れてた。」
兄も僕も、ただただ目の前の状況にうろたえて、彼女の言葉を飲み込めないでいた。
「いいから、早くこっちへ来るんだ!」
兄が怒鳴るような口調で言う。でも彼女は、笑みを返すだけで、柵の向こうに佇んだままだった。
「これ。」
彼女は何かを僕らに向けて投げる。瞬間、彼女は、少し体勢を崩して、柵の向こう側でよろけた。兄はびくりと体を震わせ、僕は慌てたしぐさで彼女の投げた『何か』を受け止めた。
小さな、布の巾着袋だった。中にはごつごつとした石のようなものが入っているのが、感触で判る。何が入っているのか見当はついた。が、開けて確かめずにはいられなかった。
小さな、白くくすんだ塊が二つ。
骨。
きっと、彼女の母と、そしてさっき彼女に手渡したばかりの、父の。
「お願い、私の骨もいっしょに、そこに入れて。自分じゃできないでしょ。」
おどけるような口調が逆に、彼女の真剣さを感じさせる。本気だ。本気なんだ。膝から下が、小刻みに震えだす。
「早まるな!もう一度じっくり考えてからでも遅くないだろう?とにかく、こっちへくるんだ。」
高揚した兄の声も震えていた。
もう無理なのか。止めることはできないのか。思考を巡らすが、考えれば考えるほどに、目の前の状況が瞳の奥でふわふわと揺らぎ、リアリティを失って、ぼやけてしまう。
ふと、疑問が沸く。
彼女を止めたい。けれど、僕に、僕や兄に、彼女を止める権利はあるのだろうか。
僕らが彼女を追い込んだわけではない。でも、彼女がこうまでして求めてきたもの、血で繋がるべき絆を反故にして、父を憎むことでそれを拒絶し続けてきた僕らに、果たして彼女の葛藤してきた何が判るのだろうか。彼女がこの答えにたどり着いた道程の、結果の、何を否定できるのだろうか。
できるわけが無い。無理に引き止めるのは、傲慢以外のなにものでもない。少なくとも、僕と兄にとっては。
「わかった。君の言う通りにする。」
僕は言った。自分でも驚くほどに、残酷なほどに、澄んだ響きだった。
彼女はその言葉をかみ締めるようにゆっくりと一度瞬いて、空を仰ぎ、再び僕を見据えて、言った。
「サンキュ」
紫が、宙を舞った。