32. Parenthood



 赤らんで、潤んだ彼女の瞳を見て、泣いているんだな、ということはかろうじて、判った。でも、口元は緩み、頬の力も抜けていて、笑んでいるようにも見える。不思議な表情だった。
 僕自身は、どんな表情を彼女に向けているんだろう。
 麻痺したみたいに全身の感覚がおぼろげで、つかみどころがなくて、宙に浮いているような気分にもなって、動けない。自分の表情をコントロールするどころか、今まさに自分がどんな表情を浮かべているのかを、認識することすらできない。
 頭の中で、必死に彼女の発した言葉の意味と、現実との狭間を僕は埋めようとしていた。
 彼女と、父。
 最初はそんな単純な思考だけで、何もかもを納得できたつもりでいた。
 彼女と、彼女の母。
 彼女の母と、父。
 彼女と、彼女の母と、父。
 いろんなものと、いろんなつながりと、いろんな狭間が、一度に僕の中になだれ込んできて、収拾がつかない。
 そして、思い至る。
 彼女と、僕。
 その先にある、真実。
 妹と、兄。
 そのもっと先にある、事実。
 娘と、父親。
 そして、娘と父親の築いた、関係。
 逃げ出してしまいたい衝動が、足の裏をこそばゆく疼かせる。でもきっと、立ち去ってはいけないんだ、という予感のようなものが、僕をこの場になんとかつなぎとめていた。
 「だって君は、父の愛人なんだろう?」
 混乱する思考を無理やり遮って、ようやくそれだけ、言った。
 彼女は、泣いているとも笑っているともつかない、曖昧な表情を消さないまま、僕を見据える。
 「世間では、そう言う関係なのかな。」
 「おかしいじゃないか。だってさっき君は、君も君の母親も父の家族だって、それはつまり、君は、あの男の娘っだってことだろう?」
 「そうだね。うん、そうだよ。」
 「じゃあ、何で・・・」
 何で父とそんな関係になったんだ。胸のうちでそう叫んでも、声には出なかった。言葉として、吐き出してしまうことができなかった。
 でも彼女は、僕の胸中の全てを理解したふうに、ゆっくりと頷いた。
 「わからなかったの。家族って、親子って、どうやって繋がってればいいのか。なんだか、抱かれちゃうのが、一番手っ取り早くて、一番判りやすいのかなって。だから、かな。」
 表情とは相容れない、さらりとした口調で彼女は言った。違和感はあったけれど、無理をしているようにも、強がっているようにも見えなかった。
 「だからって、やっぱり判らないよ、俺には。だって、親子だろう?わかんないよ。」
 ひとりごちるような声になってしまった。彼女に向けてというより、自分自身に毒づくような、そんな口調になった。
 「しかたないよ、親子の実感がなかったんだもん。ずっと会ったことがなかったし。ママは、私のこと、私を生んだこと、あの人に隠してたし。」
 「親父は、知らなかったのか?君が生まれたこと。」
 「私が小学校に上がるちょっと前に、どこかで誰かに聞いたみたい、私のこと。それで、何年かぶりにママの前に現れて、言ったらしいの。俺はその子の存在は認めないって。」
 何かが、胸に突き刺さった。ショックだった。その言葉を吐いた父に、憎しみよりも悲しみを抱いた。
 ―――その子の存在は認めない。
 研がれたナイフのように、その言葉自体がもう、凶器そのものだ。彼女にとって。彼女の、母親にとっても、また。
 「それが原因で」彼女は、多分青ざめているであろう僕の顔を見据えながら、続ける。「ママは死んじゃった。私を残して、ビルの屋上から、飛んで。私の身代わりにその言葉を受け止めて、貫かれて。」
 涙が一筋、静かに、彼女の頬を伝う。僕は言葉を継げない。思わずまなざしを伏せる。沈黙が、僕ら二人の前に降りてくる。凪いだ海の、ほんの小さな細波が、防波堤にはじける音だけが、あたりに響く。
 「どこまでを人殺しと言うのかな。」
 不意に、彼女が言った。僕は再び、視線を上げる。
 「あの人がね、ママのお葬式の時にそう言ったの。ささやかな罪悪感が、きっとあの人の中にもあったんだね。なんでだか私はそれが嬉しくて、耳のずっと奥の方に、その言葉の響きが、今でも残ってる。」
 彼女は視線を海の向こうへと投げた。どこか吹っ切れたような表情に変わっていた。
 「親父を憎んでないの?」恐る恐る、というような口調になってしまう。父が責められるべきなのに、僕が責められているような錯覚がしたから。
 「憎しみとか、怒りとか、そういうのはママが全部持っていっちゃったみたい。かわりにね、あの人が欲しいっていう、つながっていたいっていう気持ちを、私に押し付けて、いっちゃったの。だから―――」
 彼女は再び、僕を見つめる。
 「抱かれたいと思ったのは私じゃなくて、私にのり移ったママの想いなのかも、ね。」
 「それで、君は良かったの?」僕が尋ねると、彼女は笑みを返す。
 「娘としても、こんな境遇でしょ?父親がどういうものかなんてわからないし、わからなければわからないほど、知りたくなるし。でも方法が他に思い浮かばなくて、結局、抱かれちゃうことでしか、親子のつながりを実感できない体になっちゃったんじゃないかな。」
 おどけるように、彼女は言った。そのけなげさが逆に、僕の胸を鈍く疼かせた。
 「親父は、知ってたの?君が娘だと知って、君を抱いたの?」
 「最初は、知らなかった。ママのお葬式の時に会ったきりだったから、何年も経ってて、私も変わってたし。教える気も無かったし、ね。でも、私の叔母さん、ママの妹なんだけど、その人にバレて、で、言っちゃったのよ、あの人に。もうでしゃばりなオバサンでさ、ママが死んだ時も、あなたたちの家に押しかけたんだよ。」
 あの、母の震える背を見た日だ、と思い至る。
 「それで、親父はどうしたんだ?」
 彼女はほんの一瞬黙り込み、何かを飲み込むように、ゆっくりと頷くようなしぐさを見せてから、言った。
 「それで、あの人は死んじゃったの。」
 平べったい声だった。でも、ほんの僅かに語尾が震えていた。


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