次の朝、早くに僕は家を出た。
既に起きて台所に立っていた母に気付かれぬよう、しずしずと階段を降り、物音が立たないように玄関の扉を閉めて、拓郎のバイクに跨った。
どこか、急せいている気持ちがあった。何故かは判らない。でも、とにかく、ジーパンのポケットに捻じ込んでいた父の遺骨を、早く彼女に渡してしまいたかった。
拓郎のバイクで、街道を北へと向かう。
薄く靄のかかった街道には、潮と新緑の入り混じった匂いがゆらゆらと漂っていて、それをヘルメット越しに大きく吸い込むと、昨日の夜から淀んでしまっていた胸の奥が、ほんの少しだけ、宥められた気がした。
昨日は、殆ど眠れなかった。
過去にも、眠れない夜はあったけれど、どこか、違う感触がした。
深夜の台所で母の震える背を目の当たりにして、初めて父を憎むようなったあの夜も、やはり僕は眠れなかった。でも、そのときは何かが少し、違った。
興奮も無く、ささくれ立った感情も無かった。ただただ、鈍く重い鉛のような異物感が、胸の中に横たわっていて、僕を熟睡させてくれなかった。
拓郎の家の前へ続く路地へ入ったところで、家の前に二つ、人影が見えた。うちひとつは、バイクに跨っている。はっきりと認識できる距離まで近寄る以前に、それが拓郎と啓太であることがわかった。
二人の傍まで寄ってバイクを停める。
「どうしたんだよ、朝っぱらから」
無理に垢抜けた声を出しながらヘルメットを脱いだ時、初めて、もう一人、小さな子供が拓郎の傍らにいることに気付いた。小学生の、高学年になるかならないかくらいのその男の子は、僕と目が合うとすっと視線を脇へ逸らし、拓郎の陰に隠れるように身を引いた。
「どうしたの?その子。」
僕が聞くと、拓郎は何故か、ぎこちない笑みを返す。
「知り合いの子。ちょっと今日な、預かることになって。」
「なんだよ、お前の子供とかじゃないのか?本当は。」
「違うよ、バカ。」
言ったのは、啓太だった。おどける僕とは反対の、どこか棘のある啓太の声に、僕は思わず萎縮してしまった。
「じゃあ、そういう事で、そっちは頼むな。」
啓太は拓郎に向かって言うと、バイクのエンジンをかけた。
「お前、昨日、漁で寝てないんだろ?大丈夫かよ。」
排気音にかき消されないように、張った声で拓郎が言う。
「明日は休むから、大丈夫。」
ヘルメットを被りながら、くぐもった声で拓郎にそう返すと、啓太は小さくタイヤを鳴らして、まるで逃げるように走り去った。どこか、そっけなさを感じさせる去り方だった。
「何かあったのか?」
啓太の姿が見えなくなってから、拓郎に尋ねた。拓郎はやはり、頬を引き攣らせた不自然な笑みを向けて、「ちょっとな」と曖昧に返すだけだった。
二人の漂わせていた違和感を、その時の僕は、全く気にかけていなかった。そんなことより、早く彼女に父の遺骨を手渡したい、急いた気持ちでいっぱいだった。
「彼女、居るのか?」
男の子の手を取って玄関に向かった拓郎の背に尋ねた。拓郎は振り向かずに、ビーチのある方角を指差した。
「また海に行ってるよ。よっぽど好きなんだな。」
「判った。」
僕は踵を返し、ビーチへと向かった。振り向いた途端、背中に妙なざわつきを覚えたけれど、無視して、そのまま駆け出した。
彼女は、ビーチを囲う防波堤の先端にいた。脚を外洋に投げ出して腰を下ろし、朝陽をきらきらと反射させる海にまなざしを向けていた。僕に気付くとおどけたように敬礼のポーズを取って、笑みを投げた。
今時それはないだろう、と思う。
少しレトロで使い古された、そんなしぐさが自分のことのように気恥ずかしく感じる。でも、水面に反射した朝陽を受けて妙に輝いて見える彼女の笑顔は、恥ずかしさも何もかも、すぐに帳消しにしてしまう。本当に、不思議な人だ。
「もしかして、もう持ってきてくれたの?」
再び水面にまなざしを戻し、彼女が言った。
頷きかけて、思い留まる。
納得しきれない思いが、僕を制した。
この、父の遺骨を渡して、本当に彼女は救われるのだろうか。
不意にそんな疑問が沸いた。
何故彼女は、これを欲しがるのか。兄や母に疎まれてまで。この島に、足を運んでまで。
判らない。きっと彼女にしか、本当のことは。
だから、尋ねた。
「君は何でそんなに、親父の骨を欲しがるんだ。こんなもの、君にとって何の意味があるんだ。どうやったって、親父は帰ってこないし、君はまだ若いし、こんなもの持ってたって、未練が残るだけじゃないか。」
まくし立てるような口調になってしまって、途中で、自分で自分がわからなくなった。何でこんなに僕は、何にこんなに僕は、必死になっているんだ?それも、唐突に。
自分の今の感情の意図や向かっている方向が、理解できない。
彼女はそんな僕に対して、何もかもを見透かしたようにも、気にもかけていないようにもとれる一瞥を投げて、でもすぐに海へと視線を戻し、唇の端を緩ませたまま、言った。
「いつか、あなたのお母さんが死んでしまったら、あなたのお母さんはあの人と同じお墓に入るでしょう?」
唐突に、縁起でもないことをさらりと彼女は口にした。僕は急に現実に引き戻されたような気分になって、われに戻ると同時に少しいらだって、怒気を篭めた視線を、彼女に向ける。
「当たり前だろう。」
「何で?」すかさず、彼女は返す。
「何でって、夫婦だから。」
「夫婦って、何?」
思わず、言葉に詰まる。
「紙切れで契約を交わしたから、夫婦?」
「それだけじゃない。」引き攣る口調で、それだけ何とか返す。
「じゃあ他に何があるの?」彼女はひるまない。
「家族だよ。俺がいて、兄貴がいて、親父と母さんだけじゃないじゃないか。家族がいるから、例えば君と親父の間だけの話じゃなくて、俺らがいるから、だから、夫婦なんだよ。家族なんだよ。」
尖った声色になった。むきになった。むきになって、今まで自分が胸のうちで否定していたことを、勢いで認めてしまった。それに気付いて、思わず、自爆したみたいに、勝手に興奮して、勝手に意気消沈した。みっともなかった。
でも、彼女は笑っていた。
「うん、そうだね。」
あっさりとそう返す。穏やかで、やさしい口調だった。そして僕をを見て、笑んで、続けた。
「だから、私はその当たり前のことを、私のママにもしてあげたいだけなの。」
「え?」
間の抜けた声が思わず、漏れた。そして、後の句を継げない。
彼女の発した言葉の意味を、最初は、理解できないのだと思った。でも、違う。違った。理解できないんじゃない。理解しようとしていない。いや、理解できていることを、必死に、理解できていないことに仕立てようとしている。誤魔化そうとしている。
混乱した。
その混乱を更に際立たせようとしたのか、納めようとしたのか、もう一度、彼女は言った。今度は、一語一語を、かみ締めるように。
「だから私も私のママも家族で、それなら、いいでしょう?ほんのひとかけら、死んじゃったママの骨の傍らに、あの人の骨が添えられても。ねえ、いいよね?」
いつのまにか彼女の目は、赤く充血して、潤んでいた。