30. His Back



 驚きはあったけれど、不思議とショックではなかった。
 怒りも憤りも苛立ちも、わかない。代わりに侘しさと虚しさとが、胸を満たしただけだった。
 取り残された気分、とは、こういうことを言うのだろうか。
 兄は僕と同じ理由で父を嫌い、避け、故郷から逃げたはずだった。僕も後を追うように、家を離れた。僕を先導していた兄だったのに、結局は、父と同じ裏切りを、今、兄の持つ家族に突きつけている。
 何やってんだよ。
 そう怒鳴りつけてやるべきなのかもしれない。
 でも、今目の前にある兄の背中に、何かをぶつけてやる気にはなれなかった。どんな些細な、小さなことでも、ぶつけたらぽきりと折れてしまいそうなほど、兄の背はか細く見えた。
 電話を切って二階に上がり、昔と何も変わっていない兄の部屋に入ると、兄のその貧相な背中が部屋の中央にぽつりとあった。かつて兄の宝物だったコンポに、お気に入りだったごついヘッドフォンの端子を差し込んで、肩で小さくリズムを取っている兄の背中は、小柄な僕の背中よりもずっと大きいはずなのに、何故か、とてつもなく弱々しく見えたのだ。
 電話のコール音など聞こえないはずだ。そう思って声をかけようとした刹那、僕の気配に気付いたのか、先に兄が、ゆっくりと振り向いた。
 イヤホンの片耳をずらして、おう、と擦れた声をあげたかと思うと、兄はすぐに向き直って、床に散りばめたCDケースの群れに目を落とした。
 兄がまだ学生の頃、夢中になって集めていたヘヴィメタルの仰々しい表紙絵のCDが、兄の落とした視線の先にある。ヘッドフォンからは、連打されるバスドラムの重低音が、くぐもって漏れ聞こえていた。
 「奥さんから、電話あったよ。」
 僕が言うと、背中越しに「何ていってた?」と覇気のない声が返ってきた。
 兄の問いに答える前に、はっきりさせておきたいことがあった。
 「あの女って、彼女のこと?」
 兄の背が、ちいさくぴくりと震える。
 そのまましばらく黙り込んで、「そうだ」と、やはり張りのない、擦れた声を返してきた。
 溜息が漏れた。それが何を意味するのかは自分でも判らなかったが、とにかく、湿った溜息が、僕の口から零れ落ちた。
 「結局、親父と同じじゃないか。」
 責めるつもりは無かったし、声色も決して、尖っていなかった。でも兄は小さく被りを振って、「ちがうんだよ」と、言い訳じみた、か細い声を返す。
 「違うんだ。誤解なんだ。お前も、ウチの奴も、変に勘ぐってるだけだ。」
 口ではそう言うが、誤解を解こうという必死さは感じられない。ひらべったく、冷めた声色が、背中越しにくぐもって響いた。
 「でも、会ってはいたんだろ?誤解されるようなことは、あったんじゃないの?」
 問い詰めるような僕の言葉もまた、その意味するところに反して、相手に迫る圧力も怒気もなく、ひらべったく響く。
 「会っては、いた。」
 「何で?」
 「いずれ話す。」
 「どこで彼女と会ったの?」
 「それも、いずれ。」
 不毛な会話だった。深く立ち入ろうとすれば、兄はすっと遠ざかってしまう。昼間と同じ展開だった。そして兄の言ういずれが、果たして本当にやってくるのかどうか、それも、判らない。
 不意に、あの言葉をぶつけて見たくなった。
 不毛さに嫌気が差したわけでも、苛立ちやまどろっこしさを覚えたわけでもないけれど、衝動的に、ふと、彼女の漏らしたあの言葉を、兄にもぶつけてやりたくなった。
 「どこまでを人殺しと言うのかな?」
 言ってみた。刹那、兄は物凄い勢いで振り向いた。
 さっきの白濁としたまなざしとは対照的な、ぎらついた視線を僕に投げた。
 「お前本当は、どこまで彼女から聞いてるんだ?」
 声も、さっきまでとは違う。熱が篭っている。その予想外の勢いに、僕は気圧されてしまった。
 「ど、どこまでも何も、俺は何も知らないよ。ただ、彼女がそう言ってただけで。」
 身を引き気味に僕が返す。兄は、射抜くようなまなざしを、僕から外さない。無言で、本当に知らないのか、と問い詰めているように。
 「本当に聞いてないって、何も。でも、昔、親父も同じことを言ってたんだ。だから、その台詞だけ、妙に耳に残って、さ。」
 兄は小さく溜息をつき、ようやく刺すようなまなざしを僕から逸らした。そして再び背を向けると、くぐもった声で、言った。
 「人殺し、みたいなものかもしれない、な。」
 その言葉の意味するところは、もちろん、僕には判らなかった。


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