何故、あんなことを言い出してしまったんだろう。
再び拓郎のドラッグスターに跨り、実家へと戻る途中で、今更ながら思った。
彼女の気を惹くためだったのか、彼女に同情したのか、僕を突き放そうとする兄にしかえしがしたかったのか。
どの思いも嘘っぽくて、どの思いも、正しい気がする。
自分で自分が本当に意図していることが判らなかった。けれど、ああ言ってしまったことに、後悔は無かった。
ビーチから戻ると、夕食はいらないと拓郎に言い残し、宿を出た。
「もっと早く言えよなあ」と愚痴っぽく拓郎は言ったが、表情にはむしろ、再び実家へ向かおうとする僕の背を押すような、やさしさが溶けていた。例え過去になにがあったとしても、十年ぶりに故郷へ帰ってきた今くらい、家族と一緒にいてやれ、という説教じみた暖かさと一緒に。
陽が傾き始めていた。バイクの排気音の向こう側の、それまでは耳鳴り程度にしか聞こえていなかった波の砕ける音が、大きく響きだした。波の音が大きくなったというより、島が夕暮れの静けさに沈んでいっているのだろう。朝の早い島の人々の息遣いが、徐々に小さくなっている証拠だった。
アスファルトが夕陽の橙と夜の紫で斑模様に染まる頃、実家に戻った。
中途半端な暗がりが、昼間に訪れたとき以上にこの家の沈んだ空気を際立たせていたが、家の中から漂ってくる懐かしい匂いは逆に、昼間は抱けなかったぬくもりを感じさせてくれた。
煮魚の匂い。
ごくありふれた、夕時に家々を包む、匂い。
本当にありふれてはいたけれど、誰でも判るはずだ。月並みな匂いの中に微妙に漂う、自分の生まれた家だけが持つ、匂いの癖。
ああ、帰ってきたんだと、このときようやく僕は、実感することができた気がした。母を感じさせるにおいだった。同時に、そんな母に隠れて、母を裏切ろうとしている自分に気付き、ちくりと胸が痛んだ。
家に入ると、母は台所に立っていた。ゆったり、それでいて淀みない動作で夕食の準備を進めていた母の背は、昔毎日のように見ていた母の背よりも、こじんまりとしていて、それが悲しいのか、胸がきゅっと締め付けられた。
「淳ちゃん?」
僕に気付いた母が振り向いた。
ただいま、と小さく返すと、母は目を細めて笑み、再び夕食の支度に戻った。
「良かった。お兄ちゃんと喧嘩して出てったみたいだから、ちゃんと戻ってきてくれるのか心配だったの。」
背を向けたままで、母が言う。兄と喧嘩、という言葉の響きが妙に懐かしくて、はにかむような笑みが無意識に漏れてしまった。
「別に喧嘩なんてしてないよ。」
いいながら、居間を振り向いた。
兄は居なかった。誰も居ない、薄暗い居間。その奥の仏壇の前にぽつんと置かれた、父の骨壷が納められた木箱が目に留まった。留まった途端、脈が速くなるのが判った。
「兄貴は、いないの?」
母の背に向けて尋ねた僕の声は、ほんの少し震えていたかもしれない。わざとらしいほどに、そっけない口調だったかもしれない。でも、母は僕の動揺にも緊張にも気付かなかった。
「ちょっと散歩してくるって、ついさっき出てったのよ。入れ違いだったみたいねえ。」
のんびりとした口調で、ふりむかずに母が言う。反対に僕の脈は、更に速くなった。掌に、生ぬるい汗がじわりと浮いて出た。
今なら、抜き取れる。
父の骨壷を見やる。
もう一度母の背を見て、振り向く気配が無いのを確認してから、足音を立てないようにそろりそろりと居間に入り、仏壇の前に立った。
父の遺骨の納められた木箱にまなざしを落とし、ちらりと台所の母に一瞥を投げる。
大丈夫。母は夕飯の支度に夢中で、振り向く気配はない。
丁寧に、音を立てないように、そのくせ素早く、木箱を包む布の結びを解き、木箱のふたを開ける。中に収められた骨壷を確認してから、もう一度母の背を見る。大丈夫。やはり、振り向く気配はない。
それでも僕は神経質なほど、母の背と骨壷とに交互に視線を向けながら、素早く父の遺骨のひとかけらを抜き取ってポケットに捻じ込み、蓋を閉め、木箱とそれを包む布とを元通りに直した。
全てが終わった後でもう一度、台所を振り向いた。
母はまだ、背を向けたままだった。
僕の内側で火照っていた熱が、引き潮のように音も無くすっと薄れていった。