重く湿った空気を背負って家の中に入っていった兄の後を、追う気にはなれなかった。
僕は兄と実家とに背を向けるように踵を返すと、拓郎のバイクに跨り、逃げるようにそこを離れた。
兄の雰囲気に呑まれてしまって、その時はそれ以上、反論できなかった。けれど、実家から拓郎の家へと戻る途中で、脳裏に蘇る兄の言い放った言葉の理不尽さに、思い出したように怒りがこみ上げてきた。
何を隠しているかは知らないし、何もかもを僕に明かせとは言わない。でも、父さんのことは、この家のことは、兄さんが知っているだけのことを僕だって知る権利があるんじゃないか?僕と同じように、父さんや母さんやあの家から逃げ出した兄さんに、何故僕がこんなふうに責め立てられ、突き放されなければならないのか―――
そこまで思って、自分の身勝手さにも気付く。
結局、僕が憤っていることも理不尽だ。
兄も僕同様に逃げ出したとは確かだが、僕が逃げたことも、紛れもない事実なのだ。今の僕はただ、兄の非を立てて、自分の非を誤魔化しているだけなんだ、結局。
そんなふうに思い至って、自分のちっぽけさに自分で情けなくなって、ヘルメットの中で生ぬるい溜息を漏らした。
―――それでも。
どうしても知っておきたかった。
彼女のこと。
父の死の本当の理由。
兄の背負う影の正体。
僕の知らない何かがまだ、兄や彼女の向こう側でうごめいて、姿を見せないままに、僕を疼かせた。
とにかくもう、兄からも、そして多分、兄の隠している『何か』を知らないであろう母からも、それを聞き出すことはできないだろう。
彼女から、聞くほかは。
考えが彼女に行き当たると、あの岬の上で僕を支配した衝動が、僕をたじろがせた。
あの時僕を突き動かしたのは一体なんだったんだろう。そして、あの時の僕の暴走を止めた、体のずっと奥の方から湧き上がるようなあのざわつきは。そもそも、あんなことをしてしまった後で、どんな顔をして彼女に会えばいい?
感触だけは、妙にリアルに残っていた。あまりにもあっけなく、あまりにも抵抗無く、僕の前に倒れこんだ彼女。まるで何もかもを受け入れるような、無防備な、あの感触。
何故?
何故抵抗しない?
まるでそうなることを、そうされることを望んでいたかのようなあの無抵抗感は一体何なんだ。
いくら自問しても答えは出なかった。出ないままに、気がつくともう、拓郎の家に着いてしまった。
「答えなんて、出るわけないよな。」
思わずひとりごちると、自嘲するような笑みが無意識に漏れた。
玄関脇の駐車スペースまでバイクを引き、スタンドを立てながら、ふと頭上を見上げる。彼女の部屋の窓は、閉め切られていた。エアコンをつけるほどでもないこの中途半端な暑さの中で窓が閉められているということは、留守なんだろうか。
「淳。」
そんなことをぼんやりと考えていたら、背中に声がぶつかった。振り向くと、ワインのボトルを片手に持った、エプロン姿の拓郎が立っていた。その格好が少し滑稽に見えて、小さく吹いてしまった。
「なんか、意外とそういう格好似合うのな。」
「仕事だよ、ばかやろう。お前らの晩飯仕込んでんだろうが。」
「つっかかるなよ。褒めてんだから。」
「褒めてるって表情かおじゃねえだろうが、ばか。」
言いながら、拓郎は手に持ったワインボトルを僕の胸に押し付けた。
「何だよ、これ。」
「ビーチにあの娘がいるから、持ってってくれよ。さっき電話があって頼まれたんだ。」
「あの娘って、あの?」
僕は、彼女の泊まっている部屋の、閉め切られた窓を指差した。
「そう。」
「まだこんな陽の高いうちから飲むのか?昨日もあんなに酔ってたのに。だいいち、あの娘、まだ未成年かもしれないだろう。いいのかよ。」
「頼まれりゃ出すんだよ、酒でも何でも未成年にでも。商売だからな。」
強引な商売論と一緒に、拓郎は無理やりボトルを僕に突きつけると、すっと踵を返した。
「俺も客だろうが。俺に頼むなよな。」
「お前から金は取らないから、それくらいしろ。」
背を向けたまま、軽くあしらうようにそう言うと、拓郎は家の中に引っ込んでしまった。僕は僕で、渋るようなことを言いつつも、内心、彼女に話しかけるきっかけができたことに安堵していた。