玄関を出たところで、ようやく兄は僕の手を離した。
その勢いから、僕は、兄は怒っているものかと思っていた。父の死に打ちひしがれてしまっている母に、追い討ちをかけるような詰問をして、母をことさらに苦しめている僕に、憤っているのだと思った。でも、兄の浮かべていた表情は、怒りと言うよりもむしろ、怯えているような印象を抱かせるものだった。
「このことは、俺が始末をつけるから、もうこれ以上関わるな。」
命令口調ではあったけれど、やはり何かを怖がっているような震えが、兄の声に溶けていた。
「兄さんも知ってたんだ。彼女のこと。」
僕は僕で、まるで他人のようにつまはじきにされている気分になって、少しむっとして、そう返した。兄は僕の言葉に眼を見開いて驚き、少したじろぐように身を引いた。
「お前も、知ってたのか?」
「知ってたっていうか、この島に着いて、彼女とちょっと話す機会があって、なんとなくそうなのかなって。はっきりと判ったのは、さっき母さんに聞いた時だけど。」
「彼女と話す機会って、何を話したんだ?」
今度はつっかかるように、兄は僕に向けて身を乗り出す。兄の動揺とか、焦りとか、心の揺れとかいったものが、落ち着かないその挙動から漏れ落ちているようで、でもその源がいまいち曖昧で掴み所が無くて、不自然だな、と僕は思わず眉をひそめた。
「何って、親父のファンだったとか・・・」
と、答えたところで、彼女があの岬で漏らした言葉が脳裏に蘇る。
『どこまでを人殺しと言うのかな』
生前に同じ場所で父が呟いた言葉を、偶然なのか、彼女も同じように口にしたあの時の光景が、くっきりと脳裏に浮かんだ。
ただ、それを今この場で兄に説明するのは、なんだかいけないことのように思えた。根拠は無かったけれど、何となく。
その代わりに、もうひとつの、彼女の残した言葉を口にした。
「そういえば、私が坂巻剛を殺した、とか言ってた。」
兄の眉が、ぴくりと小さく震えた。
「酔っ払って、寝ぼけてて、ちょっとひどい状態の時に言ってたことだから、信用できないけど。でも、親父は自殺したんだよね?」
僕の問いかけに兄はすぐには答えず、低く唸るような声を漏らした。そして腕を組んでうつむくと、うつむいたままで、ぼそぼそと呟くように言った。
「話したのって、それだけか?」
「それだけだよ。」
「そうか。」
と、面伏せたまま答える兄を見て、昔と変わらず不器用だな、と思った。そんなやりとりをすれば、僕が知らない何かを兄が隠しているなんて事は、誰にでも判る。
「兄貴、なんか隠してることあるの?」
ストレートにそう尋ねた。兄は跳ねるように伏せていた視線をあげ、すぐにそれを脇に逸らして、「別に」と短く答えた。やはり、不器用すぎるほどの判り易さで。
本当に変わってない。そしてきっと、何をどう尋ねても、もう何も答えてくれないであろう頑なさも、昔のままなんだろうと思いつつ、素直にそんな兄の性分を飲み込んでしまうのも、どこか癪に障った。だから僕も意固地になって、少し冷めた口調で、突き放すように、言った。
「親父の骨、あげちゃえば?欲しがってるんでしょう。それで解決することなんじゃないの?」
「駄目だ。それは絶対に駄目だ。」
「母さんが傷つくから?でもこのまま彼女に付きまとわれたほうが、つらいんじゃないの?別にいいじゃないか、骨のほんのひとかけら、母さんに気付かれないように兄貴がそっと抜き取って、彼女に渡せば。それで彼女がおとなしく引き下がってくれるなら、そのほうがいいじゃないか。」
「何も判ってないくせに軽々しく言うな。」
兄が声を荒げる。だから、僕もつられてむきになってしまう。
「だったら判らせてよ、俺にも。こそこそ隠してないで、知ってること全部言えばいいじゃないか。」
「知ってることなんて無い。」
「馬鹿にするなよ。俺だってそんな鈍感じゃないんだ。兄貴の態度を見てれば、何か隠してることぐらい判るって―――」
突然、兄の手が僕の頬を打った。痛さというより驚きで、僕は押し黙ってしまった。
「この家からずっと逃げてたお前に、このことにかかわる資格は無いんだ。」
さっきまでの興奮を掻き消してしまったような静かな、でも厳しい口調で、兄が言った。ただ、兄の言い放った言葉の意味を、かみ締めればかみ締めるほど、身勝手な理屈に思えてきて、じんじんと痺れる頬の痛みと一緒に、憤りも膨らんできた。
「兄貴だって、逃げてたじゃないか。」
怒りに任せて、言った。兄の口調を真似て、静かに、それでいて責め立てるような厳しい口調で。
でも兄はもう、ひるまなかった。今度は静かに、首を横に振った。
「だから、お前は何も判ってないって言うんだ。」
そのとき、兄の発した言葉の意味以上に、兄の顔に落ちた翳りに、有無を言わさない圧力のようなものを感じた。兄は僕を納得させるようなことは何ひとつ、口にしていない。でも、その兄の背負った空気が、僕をこれ以上抗わせなかった。
「とにかく、俺に任せておいてくれ。」
そう言って僕に背を向ける直前の兄の横顔が、妙に胸に突き刺さる虚しさを携えていた。