兄と連れ立って実家のすぐ側にある漁港に出て、防波堤の先端に、外洋に向かって並んで腰掛けた。昔よく、こうして兄と二人で、釣竿を垂らしていた場所だった。メバルのよくつれる、地元の人間しか知らないポイントで、兄とバケツいっぱいに釣り上げては、家に持ち帰り、母に塩焼きや煮付けにしてもらった。
「最近はメバルも数が減ったみたいでさ、昔みたいには釣れなくなったらしいんだ。」
兄も僕と同じように昔のことを回想していたのか、目を細めながら凪いだ海を眺め、そんな事を言った。
「そうなんだ。」
呟くように返して、僕も視線を海へと向けた。
僅かに揺らめく海面に陽の光が反射して、きらきらと輝いている。あちこちにガラスの破片をばら撒いたようなその乱反射は、少しまぶしくて、でも、綺麗だった。釣りに夢中になっていた子供の頃には気付かなかった、故郷の風景。そんな美しい風景にいつも見守られていたんだと思うと、故郷に背を向けている今の現実が、虚しく思えた。背を向けようとする今の自分の生き方が、愚かだと思えてならなかった。でも、それならば向き合えばいい、と言う心の中の自分自身の声は弱々しく、すぐに掻き消されてしまった。
「いつ、こっちに戻ってきたの?」
胸のうちのわだかまりから目を逸らすように、僕は兄に尋ねた。
「親父が死んで、すぐ。」
意外な答えが返ってきて、思わず兄を見た。兄は、海を見据えたまま薄く笑んでいた。その笑みの奥にある兄の想いは、読み取ることができなかった。
僕は、兄は僕と同じだと思っていた。
葬儀には間に合わない。日本に、この島に帰る前、僕は母にそう告げていた。都合をつけようとすればいくらでもついた。でも、ここは海外だからとか、仕事のきりが良くないとか、とってつけたような言い訳を並べて、帰郷をわざと遅らせた。父の葬儀という、父の死とまっこうから向き合う場に立つことが、多分、怖かったんだと思う。だから、葬儀の終わった今になって、僕は島に帰ってきた。
兄も、同じだと思っていた。でも、違った。理不尽かもしれないが、少し裏切られたような気分になった。
訝しむ僕の気配に気付いたのか、兄は僕に一瞥を投げると、またすぐに海に目を戻し、言った。
「長男だからな、一応。」
少し言い訳じみた口調だった。でも、僕の胸中を察している口調でもあった。僕が訝しむ理由はちゃんと判っている、ということも、本当はらしくないと思っている兄自身の気持ちも、そこにしっかりと、染み込んでいた。だから、僕には返す言葉が無かった。
「それと、確かめたかったんだ。」
しばらくの沈黙の後、言い足りない何かを付け足すように、兄が言った。
「確かめる?」
僕が尋ねると、兄はゆっくり視線を海から空に移した。
「これがもう最後のチャンスだろう、と思ったんだ。俺は本当に親父を憎んでいたのか、とか、俺にとっての親父ってのは一体何だったのか、とかさ、今更だけど。例えば母さんにしてみたら、それはもう、本当に最悪な男だったってのは判るし、世間一般に見てもさ、やっぱり最低の父親なんだって、判る。でも、母さんも世間も関係ない、俺自身はどうなんだろうって、いつからか思うようになったんだ。そうしたらもう、ごまかせないんだよ。昔はただただ親父を憎んでいればそれで良かった。母さんを泣かせて、悲しませて、そんな痛々しい母さんを僕らに見せ付ける親父を、憎んでさえいればもう、それだけで胸の中のもやもやした異物感を誤魔化したり、やりすごせたりした。けど今は、それじゃすっきりとしない何かが、胸につっかえるんだ。結局俺は、親父っていう人間と真っ直ぐに向き合って、ああ、やっぱり俺はこの人が憎い、なんて確かめたことが無かった。それが、すごい心残りに思えた。だから―――最期にさ、確かめたくなった。」
兄は淡々と、淀みなく語って、僕を見た。兄の顔にはまだ薄い笑みが浮かんでいて、深く濃い藍色の瞳を僕に向けていた。何かを探るように。無言で、訴えかけるように。
―――お前は?確かめなくて、本当に良かったのか?
兄の胸の中の声が聞こえる気がした。
「それで、何か判ったの?」
兄の無言の問いかけから逃げるように、言った。卑怯だ、と思いながらも、その言葉が口から漏れ出すことを止められなかった。
兄は、笑みを更に深くして、自嘲するような擦れた笑い声を上げた。
「何も。葬式ってのは上手くできててさ、遺族はもう忙しくて、あれこれと考える暇なんてないんだ。そうやって、忙しさにかまけさせて、故人を想って悲しみに沈むことから遠ざけるようにできてる。本当に、忙しかった。でも―――」
兄はそこで一度言葉を切ると、また海を見た。そして、言った。
「火葬場で骨だけになった親父を見た時は、泣いたよ。自分でも信じられないくらい、思い切り、泣いた。」
兄の表情は変わらない。胸のずっと奥に潜んでいる感情を悟らせない、薄い笑みのまま、海を見据えている。
「どういう人で、どんな風に生きて、どんな風に死んだのかなんて、関係ない。憎んでいようと、恨んでいようと、関係ない。あの瞬間の、あのとてつもない遺失感は、血で繋がっているものなら逃げ出せないんだ、きっと、誰でも。」
空と海の青に、兄の声が染み込んでいく。
父の死。
気配はあった。でもまだ、実感はない。
兄の言葉で本当の姿をほんの少しだけ覗かせた父の死も、僕の中ではまだ、曖昧な靄でしかない、現実だった。