故郷の島に戻った次の日、前の晩の酔いも手伝って、僕は昼過ぎまで目覚めなかった。目覚めなかったのは酔いのせいだけなのか、という疑問は、胸のうちでもみ消した。
拓郎はすでに起きていて、昨日、あの彼女が突っ伏していたテラスに、ノートパソコンを持ち出し、インターネットで宿の予約状況をチェックしていた。
「嵐の前の静けさと言うか、シーズン前はな、暇でしょうがないよ。」
愚痴を漏らしながら苦笑し、海を望めるテラスに陣取って、青い空の下でカチャカチャとキーボードを叩く。島の自然とテクノロジーとのアンバランスさが逆に、拓郎のような斜に構えた男には、妙にはまって見えた。
実家に行くからと、拓郎からバイクのキーを受け取って、玄関先に出た。バイクのエンジンをかけた後にふと、彼女の泊まっていた部屋の窓を仰ぎ見る。昨日の夕暮れ、ぽつりとおぼろげな光を放っていた二階の端の窓の向こうが、彼女の泊まる部屋だった。今はその向こう側に、人の気配はない。
『坂巻剛を殺したのはあたしだよ。』
彼女の声が、蘇る。父の絵と、ベッドに横たわる彼女と、くぐもった彼女の声。順々に、かわるがわる、頭の中に蘇っては、消えて、また浮かぶ。
それを振り払うようにアクセルを吹かし、そこから逃げるようにクラッチをつないで、拓郎の家を出た。
今日も晴れていた。雲の残骸すら見当たらない、くっきりとした晴れだった。頂点に達した太陽は、昨日と同じように、熱の篭った日差しを容赦なく地上へ向けて降り注いでいる。雨の気配を感じさせない乾いた梅雨入り前の熱気の中を、僕は十年ぶりに帰る実家に向けて、拓郎から借りたドラッグスターを走らせた。
海沿いの街道をしばらく南へと走っていると、再び、昨日の夜の、彼女の声が頭の中で響いた。どうにも振り払うことができない、それでいて粘っこさのない、どこか矛盾したフラッシュバックに、僕はヘルメットの下で眉根を寄せた。
父は自殺した。
確かに母はそう言っていた。父が死んだ直後に電話してきた母のうろたえようを考えれば、殺されたことを自殺したと、偽っているようには到底思えなかった。偽る理由も、その必要性も、思い浮かばなかった。
でも、昨日出会った彼女は、父を殺した、と言った。
狂言かもしれない。酔った上での戯言かもしれない。父のファンという彼女の、ファンだからこその妄想かもしれない。ただ、根拠は無いけれど、彼女の声の響きにはなぜか、疑いを抱かせる隙の無いリアリティがあった、ように、僕には思えた。
直接手を下したのではなく、何かしらの状況で父を死に追いやったのが、彼女、なのか。彼女が本当は何者なのかも、父の死の理由も知らない僕に、判るはずがない。
―――父の、死の理由。
父の死後、母からはじめてかかってきた電話の時にも、その後、帰郷の日程を知らせるために僕から連絡した時にも、僕は母に、父が何故死を選んだのか、聞かなかった。
聞けなかった。
関心が全くなかったかと言えば、きっと、嘘になる。多分、つまらない意地だ。父を憎んでいた自分自身を肯定するために、父に、父の死に、興味が無いような素振りをしていただけだ。
遺書はあったのか。逝ってしまう直前に、父の態度に不自然な挙動はあったのか。死を選んでしまうほどに父が苦しむような、出来事や心当たりはあったのか。
次々と沸きあがろうとする疑問を、自分の中だけに押しとどめ、もみ消して、結局僕は今、何も知らないでいる。
そんなことを悶々と考えているうちに、昔よく馴染んだ小道に入った。緩い坂を上がりきって、僕は僕の生まれ育った家の前に、10年ぶりに帰った。
バイクを止め、ヘルメットを脱いで、逃げ去りたい衝動を必死に抑えてすごした、かつての我が家を見上げる。当たり前のことだけれど、その立ち姿は、表層的には10年前と何ら変わっているところは無い。無いはずなのに、懐かしさとは相容れない、違和感が沸いた。
翳り。翳りが、そこここに落ちている。
別に建物が古びてがたついているわけでも、庭の植栽が荒れ放題に伸びきっているわけでもない。ただ、家の放つ空気が、しっとりと湿っていて、重かった。その空間だけ、トーンひとつ分、影を濃く落としているような錯覚が、軽いめまいと一緒に僕に降りかかってきていた。それが主を失った家の持つ、独特の存在感、なんだろうか。
僕がその雰囲気に気圧されて、玄関前に佇んでいると、ドアが開いた。実際に聞こえたわけではなかったが、ドアが軋むような音の気配だけが、周囲に響いた気がした。
「おかえり。」
玄関から出てきて、そう言ったのは、9年ぶりに会う兄だった。
思いがけない相手が家から出てきて、僕は少し驚き、その感情を隠せないままに、ぎこちなく笑みを浮かべ、「ただいま」とすぼんだ声で返した。
兄は笑う。力ない笑みで目を細め、小さくゆっくりと、頷く。
「母さん、寝ちゃってるんだ。一昨日まで葬式の後片付けなんかで忙しくてな。少し外、歩かないか。」
兄は言って、微かに顎をしゃくって、僕を促した。僕が黙って頷き返すと、兄は僕の横をすり抜けて、僕がバイクで駆け上がってきた坂道を、ゆっくりと下りだした。
9年前、最後に見送った時と同じように、兄の背中はどこか煤けて見えた。