12. Reunion



 「とりあえず、入ろ。みんな待ってるよ。」
 優希の言葉で、僕は我に返った。
 僕の顔に翳りが落ちたことを、優希が悟ったかどうかは判らない。悟ったとして、そこにどんな意味が込められているのかと、彼女が想像したのかどうか、知る由も無い。
 とにかく僕は、反射的に取り繕うように笑みを浮かべて、優希に頷き返すことしかできなかった。柔らかい微笑みを返してくる優希の本心は、やはり、見えなかった。
 「いらっしゃい!」
 優希に背をおされるように戸を開けると、店長の威勢のいい、でもどこか投げやりな声が飛んできた。僕の顔で視線が止まると、おお、と大袈裟に奇声に似た声を上げた。
 「やっと帰ってきたか、この親不孝者。」
 店長は狭い店内を小走りに駆け寄ると、乱暴に僕の頭を撫でながら、至近距離で大声で言う。耳がキン、と痺れる。
 「すみません。ご無沙汰しちゃいました。」
 その勢いに気圧されて、身を引き気味に僕が言うと、店長は笑みながらも押し黙り、かみ締めるように何度も頷いてから、僕の頬を軽く張った。少し、目が潤んでいるようにも見えて、僕もつい、胸が疼いた。
 その店長の背後の座敷席から、親不孝者、という言葉に必要以上に敏感に反応している啓太の引き攣った顔が覗く。僕は暗に、気にするな、と言う意味を込めて笑みを返した。僕の笑みに啓太がほっとしたように表情を緩める。同時に、懐かしい、昔よく聞いた声が耳に飛び込んできた。
 「おそーい。」
 ふてくされて、間延びした声。美咲だった。啓太と拓郎の対面に向き合って座り、手に持った空のビールジョッキを、憂鬱そうに僕と優希に向けて左右に振っていた。
 「ごめん、拓郎にバイク借りて乗り回してたら、つい夢中になっちゃって。」
 苦い言い訳をしながら啓太の横に腰を下ろすと、美咲に、手に持ったグラスで頭を小突かれた。
 「その前に、言うことあるでしょ。」
 美咲は言って、ふてくされる。美咲が僕に求めている言葉は、すぐに判った。昔から変なところで、彼女は妙に儀礼的で潔癖なところがあった。それは10年経った今も、変わっていないのだと、僕は悟った。
 「ただいま。」
 少し照れの混じった苦笑と一緒に、でもそれなりにうやうやしく僕が言うと、美咲は満足そうな笑みを浮かべ、「おかえりぃ」と返した。酔いのせいか語尾があやふやにぼやけていたけれど、暖かさを感じさせる、柔らかい声色だった。
 「お前、あんまり下手なこと言うなよ。もう5杯空けて、結構いっちゃってるからな、こいつ。絡まれると面倒だぞ。」
 啓太の背中越しに、拓郎が小声で毒づく。美咲はすぐに察して、くしゃくしゃになったお絞りを拓郎の横顔に投げつけた。
 「余計なこと吹き込んでんじゃないの。昔からあんた達がそんな風にあること無いこと大袈裟に吹き込むから、淳がどんどん汚れてくんだから。本当は凄くいい子なのに、ねえ。」
 まるで小さな子どもに言い聞かせるように、美咲が僕に同意を求める。僕が苦笑だけ返すと、それも気に入らなかったのか、「しゃんとしろ!」と言いながら、今度は優希に出されたばかりのお絞りを僕に投げつけた。
 「サキちゃん。」
 落ち着いているのに妙に威圧感のある声で、優希が美咲を宥める。美咲の「み」の字を省いた、優希特有の美咲への呼びかけ方は、今も変わっていないんだな、と僕は懐かしさに笑んだ。美咲が優希の言葉に素直に従ってしょげるところも、昔のままだった。
 それからしばらく、僕らは懐かしむように、高校の頃の話に夢中になった。
 最初のうちは、どんな話題でも自分が中心に居座ろうと美咲が無理にしゃしゃり出ていたけれど、時折行き過ぎをたしなめる優希の合いの手と、まわり始めた酔いとにだんだんとその勢いも消されて、いつの間にか、壁にもたれるように寝入ってしまった。
 そこで僕はふと、気付く。
 意識して避けていたのかどうかは、判らない。でも誰も、こういう席ではありがちな、近況報告のような事は口にしなかった。ただひたすら過去の、僕らが毎日一緒だった日々の記憶をしきりに言葉に置き換えるだけで。それがどこか不自然で、僕の胸の奥でずっと、何かが引っかかっていた。優希の『今』を知りたがっていた僕が、単純に意識し過ぎていただけなのかも知れないけれど。
 でも、そう。まるで狙い済ましたように、と僕が思ってしまうのもおかしくないくらい、話の節々のどこからも、優希の『今』を感じ取ることができなかった。何故この島に戻ってきたのか、そして、彼女は僕の子と、どんな暮らしをしているのか。その気配すら、微塵も、感じられなかった。
 考えてみれば当たり前だ。
 優希が僕の子を連れて、僕と一緒にではなく、独りで、この島に戻った。そんな話を、今、この場では聞きたくないし、他の誰も、わざわざすすんで話したがるはずも無いだろう。とにかく今だけは、明日からまた繰り返される現実を忘れて、久しぶりに再会した旧友とただ単純に昔を懐かしみたい。そう思うのは、僕も、他の3人も同じなんだろう。だから誰も、『今』を口にしない。
 ―――でも、それでも・・・
 時折盗み見るように、僕は優希に視線を投げた。けれどやはり、高校の時と同じように、少し後ろに引いて笑顔を絶やさない彼女の内側を、その表情から覗き見ることはできなかった。

 店長が店の中に暖簾をしまいこむ頃には、啓太も酔いつぶれて、小上がりの座敷の隅っこのほうで、大の字になっていびきをかいていた。その反対側の隅には、拓郎の上着をブランケット替わりにして丸くなる美咲が、やはり小さな寝息を立てている。取り残されるようにテーブルを囲い、安物の角瓶を水で割って啜る、拓郎と優希と僕。どれもみんな、高校時代によく 僕らがこの『潮騒』で陥った構図だった。昔のように店長が止めに入らない事実が、僕らも大人になったのだと訴えているのに、それでも、僕ら3人を取り残して、二人は寝息を立てる。
 「変わらないのな。」
 たまらずに、僕が言う。
 「今日はまだマシなんだよ。」
 優希は溜息混じりに、交互に二人に視線を投げてから、小さく笑った。
 拓郎は舌を打ち、「そろそろ帰るか。」と言いながら、携帯電話を取り出す。
 もう、終わりか。僕は二人に気付かれないように、胸の内側で溜息をついた。
 結局優希からは何も、聞けずじまいだった。胸の奥にわだかまりを貯めたまま、今日は布団に潜り込むしかないな、と覚悟した。
 「そうそう、いつも通り、『潮騒』ね。」
 拓郎は呆れたふうな口調で携帯に向かってそう言うと、電話を切り、溜息混じりにそれをズボンのポケットに捻じ込む。
 「タクシー呼んだからさ。俺、こいつら送ってくわ。お前ら、さきに帰ってろよ。淳、お前の部屋、2階の端から二番目な。」
 「じゃ、いつも通りお任せしていいかな。」
 言いながら優希は立ち上がり、身支度を整えだす。
 本当にいつも、こういう流れなんだろう。手際よく二人は、店を立ち去る準備を始める。
 僕はてきぱきと動き出す二人を、始めは呆然と見つめて、ようやく自分も席を立つ準備を始めたときに、気付く。
 思いもよらずに、優希と二人きりになる機会が転がり込んできた、と。


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