10. In The Twilight



 あの岬からずっと、背中に得体の知れない気配がこびり付いていた。それを振り払おうと、僕は拓郎のドラッグスターを夢中で走らせた。島を取り巻く街道を、ただ、ひたすら周回した。
 『どこまでを人殺しというのかな。』
 走っている間も、父のものなのか彼女のものなのか、はっきりと区別できない声の響きが、耳の裏側で何度も蘇っては、消えた。その度に体が震え、危うくバランスを崩しそうになったりもした。
 あの、一致。
 あれは単純に偶然なんだろうか。それともやはり、どこかに残っていた父の意思が、彼女の中に入り込んだのか。
 また、身震いした。毛羽立つ悪寒を払おうと、クラッチを抜き、アクセルを派手に吹かして、再び、走り出す。同時に、くだらないことにびくついている自分が滑稽になり、ヘルメットの中で小さく声に出して、笑った。
 一体、島を何周しただろう。
 いつのまにか、東の空から夜の藍色が降り始めていた。道が暗がりに包まれだし、突然視界が狭まった圧迫感で、僕はようやく正気に戻った。
 路肩にバイクを停める。フルフェイスのヘルメットを脱ぐと、湿った潮の香りが直に鼻を衝いた。そのままその香りを深く吸い、そして吐く。それで何とか、泡立つ胸中を鎮めることができた。
 遠くで、波が砕ける音がする。まるで小さなノイズのように、それは僕の鼓膜を僅かに揺らした。
 懐かしい音だった。この島に暮らしていた頃は、殆ど毎日、このどこか物憂げで、どこか甘ったるい音の響きを、耳の中に溜め込んで、揺らして、独り、もてあそんだ。暗いやつ、と言われればそれまでだが、でも、いつもささくれ立っていた僕の胸中は、そうやっていると決まって、なだらかになった。
 ふと、『潮騒』で飲もうといっていた、拓郎との約束を思い出した。拓郎の家へ戻らなければと、辺りをうかがった。あまりに夢中で走っていたから、すぐに自分が今いる位置がわからなかった。
 少し前方の木々の隙間から、神社の鳥居が見える。
 島の北端に差し掛かる手前にある、小さな稲荷神社。赤い鳥居が夕陽を受けて鈍く光り、夕闇の中で不自然に浮いている。ここからなら、今来た道を引き返して南下する方が、このまま進むより遥かに早かった。
 ヘルメットを被りなおしてから、バイクをターンさせ、ヘッドライトを燈す。まだ若い夜の紫に染まりかけた路面が、鈍く反射して浮き上がる。
 あの声がまた、頭の奥に響く。それをもみ消すようにアクセルを二回吹かして、バイクを走らせた。

 拓郎の家についた頃には、夕暮れの朱色よりも、夜の藍色の方が強さを増していた。
 玄関先にバイクを停める。目の前に建つ洋館は、2階の端の部屋にだけ灯りが燈っていて、1階も他の部屋も暗く、人の気配が無かった。
 玄関口に歩み寄ると、メモ紙が貼り付けられていることに気がついた。それをはがして、手に取る。殴り書きで、先に行く、早く来い、とだけ書いてあった。昔よく目にした、啓太の乱暴な筆跡だった。
 踵を返し、『潮騒』へ向かおうと思った瞬間、気配を感じた。反射的に振り向いた。
 誰もいなかった。
 夜を前に脆弱になった夕陽を受けて、赤黒く染められている拓郎の家の壁が、そこにあるだけだった。灯りのついた二階の端の窓が、妙に違和感を放ちながらおぼろげに輝いていた。
 拓郎の部屋、じゃ、ないな。
 なんとなく、そう感じた。
 そういえば港に着いたときに啓太が、僕以外に客が泊まる予定だと言っていたことを思い出す。だから卓郎は迎えにこれなくなった、と。きっと、あの部屋にいるのは、その僕以外の客、なんだろう。
 気を取り直して前を向き直り、再び歩き始めた。

 『潮騒』は、拓郎の家から程近い、この島で一番大きなビーチの南端にあった。
 シーズン前の、閑散とした海沿いの道を抜けると、その、昔と変わらない、古びた木造の建物が目に入り、途端に、僕の足取りは重くなった。
 美咲と優希も誘ってある。
 そう拓郎は言っていた。それが多分、僕の歩みを鈍くしたものの正体だ。
 優希、と口の中で小さく呟いてみた。刹那、昔の記憶のディテールが頭の中であふれ出しそうになり、慌てて思考を逸らす。
 馬鹿か、俺は・・・。もう一度、口の中で呟いた。
 店の軒先に立つと、更に僕は臆した。暖簾の向こうの引き戸越しに聞こえてくる啓太とおぼしき豪快な笑い声が、否が応でもその対面に座る面々を想像させて、僕を踏みとどまらせた。
 しばらくそうやって店の前で立ち竦んでいると、唐突に肩を叩かれた。
 あまりにも突然だったから、僕は驚いて、飛び跳ねるように振り返った。肩を叩いた相手も、まさか僕がここまで大きなリアクションをすると思っていなかったのか、「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。
 立っていたのは、優希だった。
 両手で口を押さえ、驚きで目を見開いて、彼女は僕を見据えていた。
 「・・・ひさしぶり。」
 硬直したままで、僕がようやくそれだけ言うと、彼女は口に当てていた手を胸に置きなおし、安堵したように大きく溜息を突いた。そして、小さく笑った。
 「驚かすつもりは無かったの。ごめんね。」
 言って、眉を下げ、笑みを深くする。
 昔と変わらない優希の笑顔が、軒先から漏れる店の灯りに照らされて、闇の中に淡く浮いた。それまで会うことに躊躇っていた自分を無意味に思わせてくれるくらい、邪気の無い、無垢な笑顔だった。
 「こっちこそ、ごめん。逆に驚かしたみたいで。」
 ようやく僕の肩からも、力が抜けた。
 「ひさしぶり、だね。」優希が言った。
 「そうだな。」僕が、返した。
 優希はしみじみと、僕を見つめる。照れくさくて、僕は視線を逸らした。逸らした途端に、またふと、小さな悪寒と共に疑問が沸く。
 優希は今、独り、なのか。
 過去が、再び僕の頭の中にあふれた。今度は、上手くそれを追いやることができなかった。


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